織田信長
(1534〜1582)
織田信秀の嫡子。尾張那古野誕生ののち元服。当時は「うつけ者」と称された。尾張統一後、強力な家臣団を編成し、永禄三年桶狭間にて今川義元を撃破。徳川家康と同盟を結び、美濃攻略し「天下布武」の印の元に天下統一をめざした。永禄十一年、足利義昭を擁して京へ上洛。元亀元年、浅井・朝倉連合軍を撃破、延暦寺焼討、伊勢長島一向一揆など反信長勢力に応対した。天正四年、近江安土に安土城を築城して、岐阜から本拠地を移し、嫡男・信忠に岐阜城と尾張・美濃を譲った。天正五年以降、播磨に羽柴秀吉・丹波に明知光秀・北陸に柴田勝家・甲斐に織田信忠と各武将を派遣し、着実に「天下布武」を進行させたが、天正十年、秀吉の要請で中国路へ出陣する際宿した京都本能寺にて、六月二日未明、同じく中国路に出陣するはずであった明智光秀の謀反・急襲をうけ、孤軍奮闘の末、自刃。享年49歳。信長は関所を撤廃し、城下町に楽市・楽座制をしき、検地指出を徴し、堺などの都市と流通を掌握するなどの統一政策をしき、中世権門に大打撃を与えた。しかし、柴田勝家に越前を与えたものの全権委任はしていないなど、その政治は信長個人の専制支配の色彩が強く、政権の性格としては、戦国大名から大きく脱皮するにはいたっていないといえよう。それだけに政権も領地支配も、信長の死とともに瓦解した。
豊臣秀吉
(1536〜1598)

尾張中村出身。織田信長の草履取として仕え、墨俣一夜城・金ヶ崎の退却など戦功をあげ、しだいの重用され羽柴氏を称した。天正元年、浅井氏滅亡後、その旧領を与えられ、翌年、今浜に築城し長浜と改め筑前守に任ぜられる。天正十年、備中高松城を包囲中に本能寺の変報が届き、信長の死を秘して毛利と講和し、軍を帰し山崎の合戦で明智光秀を破った。信長の死後、主導権争いで織田信孝・柴田勝家と対立。これを滅ぼした。こうして信長の後継者としての地位を確立し、大坂城を築城。天正十二年、織田信雄・徳川家康と小牧・長久手にて戦い、のち講和。四国・九州・関東と平定し、この間に朝廷から関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜った。文禄元年と慶長元年に朝鮮に派兵したが敗れた。慶長三年八月十八日 京都伏見城にて死去。享年62歳。
徳川家康
(1542〜1616)
江戸幕府創業者。初代征夷大将軍。幼名・竹千代。六歳の時、駿府の今川義元のもとへ人質となる。桶狭間の合戦直後、岡崎に帰り、今川氏から独立。織田信長と同盟を結び、松平姓から勅許を得て徳川姓へと改名。三河守に任ぜられる。天正三年、信長とともに武田勝頼を長篠にて撃破。同氏滅亡とともに信長より駿河を与えられる。本能寺の変の混乱に乗じ、甲斐・信濃半国を手に入れ、三・遠・駿・甲・信の五カ国を領する大大名となった。天正十二年、織田信雄とともに豊臣秀吉と対立したが講和し、臣従した。秀吉の死後、五大老の筆頭として政務を総覧したが、慶長五年、関が原にて石田三成ら西軍を撃破・一掃し慶長八年、征夷大将軍に任ぜられ幕府を江戸に開いた。これに不満をもつ豊臣秀頼一派を慶長十九年・元和元年の大坂冬・夏の陣にて滅ぼし、天下統一に成功した。元和二年四月十四日、病の為死去。享年74歳。尚、家康九男の徳川義直は尾張徳川家の祖である。

Homeごあいさつ料金とご予約館内のご案内
ほっと湯・和み湯 | お食事地図のご案内観光案内リンク
Englishお問い合わせお客様のご紹介 | 尾張三英傑
ホームページ利用についてリンクについて個人情報について

Copyright:T.Yamada c/o Meiryu ,All rights reserved