知っているような 

  理容資料館              

江戸時代の髪結い床屋風景

明治・大正時代

理容椅子  
理容椅子が広く普及したのは、明治の中期以降で、明治末期から大正にかけては、主に   
木製の椅子であった。大正中期には、背もたれだけがハンドル操作による、リクライニングとなり、   
昭和になり、現在の椅子に近い回転椅子の登場となる。
ハイドリック椅子(昭和初期)   
昭和に入り高級なハイドリック椅子が出回り、戦前戦後にハイドリック椅子と、回転椅子の時代が
続き、昭和40年に電動椅子の出現となる
てっぽう(大正〜昭和初期)      
てっぽう 分厚い檜材で作った角型、小判型の『洗髪槽』。
初期のものは炭火を用いて湯を沸かしていたが、大正の初めにはガス式に変わった。
ガスによる『てっぽう』も、その後貯水式の給湯用ボイラーが出回ると、いつしか姿を消した。
剃刀
かみそりは、仏教伝来(538年) とともに中国から朝鮮を経て日本に伝わった。一般に
用いられるようになったのは、戦国時代に織田信長が武士の(さかやき)をつくるのに
用いてからと伝えられている。当時は刀身が大きく、柄の長いものが使われていたが
次第に短身、短柄で使いやすいものが、工夫製作され、現在に見られる形となった。
理容鋏
鋏は支点の位置により、『後支点』と『中支点』の二種類に大別され、現在使用されている
理容バサミは刃と柄の中間に支点のある中支点方式の鋏に属する。
中支点方式の理容鋏が我が国に輸入されたのは、明治初年で、フランス人のコルテによって
もたらされたといわれる。それまでは、後支点方式の元結い鋏に何らかの工夫をこらして、
使用されていたと思われる。その後、明治4年、
断髪令が公布され、理容鋏の絶対数が不足し、明治10年に国産化された。
サインボール
世界共通の理容の看板であるサインボールは、西洋理髪が入ると同時に店頭に登場した。
はじめは太い棒にペンキで赤・白・青・の3色を塗り分けた(アルヘイ棒)と呼ばれていたが
、いつのまにか、アメン棒と呼ばれるようになり、理容店のシンボルとして親しまれてきた
 サインボールの3色は、動脈(赤) 静脈(青) 包帯(白)をあらわした物で、理容師が
ヨーロッパの中世の頃(理容外科医)として、医療業務に携わっていたことに由来する。
アイロン加熱器(大正〜昭和初期)
アイロンは1875年にフランスのマーセル・グラトーが「マーセル・アイロンとその使用方法」を発表したことに
始まる。日本に輸入されたのは明治30年代で、ひげの形を整える以外に、前頭部の毛を巻い
て、丸く収めたり、ハーフロングの整形に使用された。
 大正14年には、電気アイロンが発明され、加熱、断熱などの温度調節が、容易になり さらに
昭和34年には、アイパーが考案され、男性ヘァーのフアッション化のきっかけをつくった。
美観術用カップス昭和初期〜戦後
美顔術器具  我が国に美顔術が輸入されたのは、明治38年 アメリカのドクトル・W・キャンブルー氏
がキャンブルー式フェィスマッサージを伝えたのが初めである。美顔術は、フェッシャルマッサージと 呼ばれていた
こともあるが、明治48年に 「マッサージ取締り規則」 が制定されたのを機会に、現在の美顔術
(フェッシャルトリーメント)の、名称が定着した。
バリカン
゙リカン 明治7年に、仏国バリカン菱屋により輸入された両手式トンドル(髪刈器)が最初で、
これにヒントを得、小型化した両手式バリカン 「日本式ジャッキ」 が明治21年に売り出された。
その後、明治23年に、片手式内バネのフランス製バリカンを見本として、国産バリカン第一号が
製作された。昭和に入り、国産マグネット式バリカンが売り出され、逐次電気バリカンも普及し、
電バリ時代となっていった。
バリカンは、1871年(明治4年)に、フランスのバリカンエマール製作所の創立者であるバリカンに
によって、発明され、その名を取ってバリカンと呼ばれているが、器具としての名称はクリッパー
(CIipper)という。

藤原采女亮の碑
長野県善光寺に理容の元祖と言われる 藤原采女亮の碑が全国同業者によって建立されています。
毎年秋期には理容関係者によってこの祖の慰霊法要が執りおこなわれます。

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