歴史

大野城と小督(おごう)の方

 室町時代の1350年、守護一色氏が大野城を築き、その後佐治氏が城主となりました。佐治氏は大 野衆と呼ばれる水軍を率いて伊勢湾全域の海上交通を掌握し、織田軍団の中でも重要視されていました。
 1584年頃、織田信長の妹お市の末娘「お督の方」が城主佐治与九郎のもとへ嫁ぎました。 豊臣秀吉と徳川家康との不穏な情勢のもと、小督の方は与九郎と離縁し、関白秀次の弟秀勝のもとへ 嫁ぎます。秀勝の死後は、後の徳川二代将軍秀忠のもとへ三たび嫁ぎ、千姫、三代将軍家光をもうけ ました。










常滑焼の歴史

鎌倉時代(1180〜1332)中国の宋との接触が再開されると、猿投窯の系統をひいた窯が中部・東海地方に ひろまり、常滑、渥美(あつみ)、瀬戸などの窯業地が発達した。瀬戸では、宋で人気のあった 青磁を模倣して、黄瀬戸などの高級陶器で、各種製品や、仏花器、コマ犬などの特製品を生産した。
常滑は、主として日常的につかわれる壺、甕(かめ)、擂鉢(すりばち)を中心に生産した。
鎌倉時代の末には、北陸には越前、加賀、珠洲(すず)、西日本では丹波備前、信楽(しがらき)、 伊賀など、それぞれに特徴のある窯業地が発達し、これらの窯業地の多くは、今日にいたるまで製陶業が つづいている。がいして器の種類はかぎられ、壺や甕などが中心であった。


このように常滑焼の歴史は古く、平安時代末期より900年に及びます。瀬戸、信楽、越前、丹波、備前と ともに日本六古窯の一つに数えられ、中でも常滑焼きは最も古く、その規模は最大といわれています。
 平安時代は経塚壷などの宗教容器が、室町時代には壷や瓶などの生活用雑器が焼かれていましたが、 瀬戸焼を保護した織田信長の禁窯令(1574年瀬戸以外に窯を築くことを禁止)により、壊滅的な打撃をうけました。
 江戸時代後半になって常滑焼は復興し、朱泥焼などの新たな焼き物を創出しました。この地は、 丘陵地形で十分な耕地面積に恵まれなかったため、村人たちは農業以外に特殊な産業を発達させました。 窯業をはじめ酒造、廻船、鍛冶、木綿などが、村人たちの生業でした。江戸前期には廻船業も盛んで、 江戸廻船や伊勢湾内の物資輸送をおこなった。
天保年間、鯉江方救により登窯が完成され、その子方寿(1821−1902)は土管の量産に成功しました。 方寿は常滑陶磁器業界に大きく貢献し、「常滑の陶祖」と呼ばれています。
 明治以降は、土管、タイル、衛生陶器、植木鉢などの生産が多くなり、植木鉢などは市内のいたる ところに山積みされています。その他朱泥急須を代表とする茶器をはじめ食器、花器や干支の置物も 数多く作られています。
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