人類の教師 清沢満之

 近代日本における、すぐれた仏教者清沢満之は、建峯・骸骨・石水・臘扇・浜風と号を変え、常に新たに自己と真実を問い続け、ここ西方寺に短い生涯を終えた。
 東京大学で西洋哲学を学び、仏教の近代化に努めた満之は、人間教育の革新に命をかけた。
 親鸞の歎異抄を深く味わい、釈迦の阿含経、ソクラテスの流れをくむ、エピクテタス語録等を究明していて、絶対他力の精神主義を提唱した。
 結核で血を吐きつつ浜風の寺で記した臘扇記のページに、世界的統一文化の原造者を目指した満之の深い思索と信仰のあかしを伺うことができる。
 「如来は私に無限の慈悲と知慧と能力を与え、一切の責任を引き受けて下さる。」という絶筆「我が信念」は、人類救済の福音として永く人々の心を潤し続けるだろう。
 浩々洞の人々によって、受け継がれた満之の信念は今も混迷する世のともしびとなっている。

 清沢満之の略歴

1863年(文久3) 名古屋黒門町に生まれる。幼名満之助、父は徳永永則、母タキ。
1872年(明治5) 第五義校(現筒井小学校)入学、その後外国語学校、医学校に進学する。
1882年 東本願寺の育英教校を過て、東京大学文学部入学西洋哲学を研究する。
1888年 京都府尋常中学校校長となる。西方寺の清沢やすと結婚する。
1892年 「宗教哲学骸骨」出版。翌年英訳される。
1894年 厳しい修行のため結核となり須磨で療養する。
1896年 宗門改革運動を起こし「教界時言」発刊。
1898年 本山から追放され、西方寺に入り「臘扇記」を書く。
1901年 浩々洞を設け弟子を養成、雑誌「精神界」を発刊し精神主義を提唱する。真宗大学の初代学長となる。
1902年 長男、妻歿す、学長を辞し大浜に帰る。
1903年(明治36) 6月6日西方寺に没す、満39歳 法名 信力院釈現誠「我が信念」絶筆となる。

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