西方寺の歴史

 太平洋の黒潮が、伊勢の海から、三河湾深く寄せるところ、知多半島にいだかれた衣ヶ浦の東岸・碧海台地の先端に、昔大浜の砂丘があった。白砂青松のこの地は、室町時代より商業の発展と共に栄えた港町であった。
 この大浜の東に接する棚尾村に、光照寺(光正寺との文書もある)と称する天台宗の寺があった。僧念雅(宝治2年・1248年没)の代に親鸞に帰依して、真宗に改宗したという。
 蓮如が三河地方をめぐり、真宗興隆の時代を迎えて、十五代念法は、明応5年(1496)に現在の大浜の地に寺を移し、名を西方寺と改めた。その後、町の発展と共に栄え、数ヶ寺の末寺を持つ、三河有数の大坊となり現在38代住職に至っている。

 西方寺の建物

 現在の本堂は、寛政12年(1800)30代慈慶の時に着工した。14間4面の壮大な建物で内陣の荘厳には数十年を要した。鐘楼・太鼓堂・土塀等は文久3年(1863)・本門・玄関は大正3年(1914)に、祖師の御遠忌にちなんで作られた。これ等の整然とした施設は、近在に類を見ない立派なものである。境内にある「弥陀の松」は樹齢4百年を数え、市の天然記念物に指定されている。
 太鼓堂は明治4年の鷲塚騒動の端緒ともなった新民序の校舎で、碧南地方における学校教育発祥の地である。  寺内には、市の文化財に指定されている證如上人像・蓮如上人の経文の他、源義朝を打ち棚尾に逃れた、長田一族の献じた刀剣等、古い歴史を物語る寺宝が数多く保存されている。

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